起業を止めてくるおっさんを撃退する3つの方法
鼻くそほじりながらTwitterしてたら
「あ〜、起業して秒で億稼いでニートしてぇな〜」
って思った経験、誰にでもありますよね?
「よしっ!起業でもすっか」っていざ行動に移しても周りが止めてきたりします。
そんなときに一番邪魔になるのはおっさんです。
「起業は目的じゃなくて手段だよね???」
みたいな感じでドヤってくるおっさん、ウザいですよね。
そこで今回は、そんなときに役立つおっさん撃退法ベスト3を紹介します。
とにかく反論せず説教が終わるときを待つ
場を荒げるとおっさんはとにかく面倒くさいし加齢臭くさいので、場を荒げず終わるときを待つという方法です。
具体的には、以下の2つを繰り返し使って乗り切りましょう。
・とにかく同意する
場を荒げずかつ早く終わらせるためには相手をいかにして早く満足させるかが大事です。
「なるほどなるほど〜」
「なるほどですね!」
「あ〜なるほど、やっぱりそうですよね〜」
っていうフレーズを繰り返しとにかく相手が満足するのを待ちましょう。
・ひたすら謝る
同意するだけではなく、自分が間違ってました感も出すとよりいいでしょう
「仰るとおりです、すみませんでした。」
「申し訳ありません、反省してます。」
こういう感じの口先だけの謝罪を繰り返しましょう。
おっさんである現実を突きつける
それでも引き下がらないおっさんの場合は、色々ガタガタ言っている自分が老害のおっさんであることを自覚させてあげましょう。
具体的には、なにを言われても以下のフレーズで応戦します。
「でも、おっさんですよね?」
これです。ひたすらこれを繰り返すことで、「おっさん」に含まれるあらゆる負のメタファーがボディーブローのようにじわじわと効いてきます。
「お前が40年間社蓄して稼いだ金を秒で稼いでやるぜ、ふっひゃぁぁあああ」
というメタファーを含めて言うとなおいいです。
実力行使
最後にそれでも引き下がらない場合は実力行使をしましょう。
@hanaken_Nirvana とりあえず釘バット持参すればだいたいオッケーよ
— その他 (@pstlm) 2016年5月18日
おわりに
いかがでしたでしょうか?皆さん一度は経験する「鼻くそほじりながらTwitterしてたら起業したくなっておっさんに説教される」ときに役立つライフハックをご紹介しました。是非実践してみて感想をお聞かせ下さい!
※今回紹介した方法は自己責任で実践して下さい。
ふぅ、なんだこの記事。
鼻くそほじりながらTwitterやってます
マッチョイズム的競争社会
僕、こんな感じでときどきエモいブログ書いたりツイートしたりするんですけど。
— 花田賢人 (@hanaken_Nirvana) 2016年4月28日
こういうポエム的なのは、理性的に語るより感性に訴えるためにあえてポエム的に書いてます。でもここで言いたい本質はエモい優しさ的幸福論とかじゃなくて社会問題としての《諦めさせない社会》についてなんですよね。なので、これについてまじめに書いてみます。
マッチョイズム的競争社会
先に言っておくと、僕自身は家にいても本当にやることがないので基本的に仕事してる感じですし、スタートアップ界隈の人たちがそういうマッチョイズム的な感じでバリバリ働いて競争していることに異議を唱えたいわけではないです。むしろスタートアップで競争してバリバリ働くのは、当事者は大変ですが社会的意義は大きいと思ってます。これについては後ほど書きます。
このマッチョイズム的競争社会を簡単に言うと、「男は◯◯じゃなきゃいけない」みたいなやつです。男らしさってやつです。「男は強くなきゃいけない」「男は弱音を吐いてはいけない」「男は泣いてはいけない」「男は働いて稼いで家庭を支えなければいけない」例を上げればキリがない。
こういう◯◯でなければいけないという男性像を親や社会から押し付けられることで、本人もそうじゃなきゃいけないと錯覚して、より強く生きてより稼ぐことが男の価値だと信じて生きていくわけです。
つまりこれはジェンダー的問題です。
日本でも女性に対して、「女性は家庭に入って家事育児に励まなきゃいけない」「女性はおしとやかじゃなきゃいけない」「女性は男性をたてなきゃいけない」みたいなこと言うと、は?みたいな感じですよ。
女性らしさ幻想と一緒に男性らしさ幻想も捨てないと男性の家事育児への参加が期待できず、女性の社会進出も労働力不足を補うための経済政策としてしか機能せず、女性も働きアリになるだけです。選択肢として働ける社会なのか、働かざるおえない社会なのかって全然意味が違います。
しかし男性に対しては、「稼いでなんぼ」みたいに思ってる人が、若者でも男女問わず未だに少ないと思います。だからこそ、定年まで長時間労働して死ぬほど働いて辛くても弱音を吐かず我慢するみたいなことが普通にあるわけです。家庭で弱音を吐いたり、ましてや仕事辞めたいなんて言える夫婦関係気づけている人まだまだ少ないと思いますし。
それを証明するかのように、日本の男性の自殺者は女性の約2.5倍なんですよね。特に中高年層が高くて、他人に悩みを話すのはいけないと思っている人が有意に高いらしいんですよね。実際、悩みって解決するかよりも愚痴れるかどうかで気持ち変わります。自衛隊でも弱音を吐く人のほうが心が折れず訓練を続けられると言いますし。弱音を吐けないという脅迫観念に迫られてるんです。
「裕福じゃなきゃそんなこと言ってられない。だから男のほうが稼ぎやすいから夫に働いてもらわないと」なんて言うかもしれないけど、それは経済問題であってこういうマッチョイズムが肯定される理由ではないんです。
長時間労働でしか回らない社会は回っているのか
日本は良い成果を効率的に出すよりも苦労して沢山働くことが評価されます。しかも、みんながみんな必死で働いてるのが評価される。逆に定時で帰って家庭の時間を大切にする人は評価されるとは限りません。1人当たりのGDPを更に総労働時間で割ると相当日本って低そうですよね。でもそれで経済回ってんだ!とかいう人いるかもしれないですけど、そんなみんながギチギチに働いて先進国の中でも特に高い自殺率の社会って本当に回ってるんですかね。
マッチョイズムで沢山働くことが評価されて、どんどん競争を煽って消耗していくわけです。週30時間働いて家庭を大事にしてますって素晴らしいじゃないですか。でも、生産性の低い日本の労働環境では難しい。
競争自体が悪いわけじゃないんです。なんのために競争してるのかってことです。スタートアップなら社会を変えたいと思って必死にやるわけですけど、多くのサラリーマンはそんなに競争する必要はないです。その競争に自己超越的な目的がないんです。《空っぽの競争》です。家計を支えられればいいわけで、定年まで必死に長時間労働しないと家計が支えられないっておかしくないですか?他の先進国では、もっと効率的に働いて家計を支えていますよね。
職場以外の人間関係が薄い社会
団塊世代付近が続々定年退職してるわけですけども、奥さんと話すことなくて辛いとかどうやって過ごせばいいかわからなくて辛いとか結構あるらしいんです。
若者からしたら、異常な状態ですよ。でも働き出すと、ワーク・ライフ・バランスなんてものはなく。退職後の毎日を充実に過ごせるほどの趣味も人間関係も職場以外にないんです。職場のOB会ってめちゃくちゃ盛り上がるらしく、でも最近は少なくなってきてるみたいだし。
《諦めさせない社会》
日本は《諦めさせない社会》です。やっぱ稼いで出世するのが勝ちみたいなのがまだ根強くて、俺はそこそこの稼ぎでそこそこの家庭でっていう諦めがあまり評価されにくいです。でも「人生ってこんなもんだろ」とか「社会ってこんなもんだろ」みたいな諦め的な達観って穏やかに幸せに生きるのには重要です。
今の若者はさとり世代なんて呼ばれてますけど、将来への不安は高いのに幸福だと感じている人は多いんです。古市憲寿氏の「希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想」で紹介されてるように、高い志持って色々将来に期待してる人もピースボートのって友だち出来て、共同体の中に埋め込まれると《諦め的達観》が出て欲求レベルが下がって幸せに生きていくわけです。
ワーク・ライフ・バランスって言うと薄っぺらく聞こえますけど、ライフを充実させるために家族や友人との時間を増やすわけですけど。そのためには必然的にワークをより効率的で生産性の高いものにせざるを得ないわけです。
だからこそ、家庭やプライベートを大事にしながらある程度稼ぐ(男女問わず)っていうの”も”評価される社会になると必然的に生産性は高くなるわけです。そういう意味で《諦め的達観》が評価される社会になるというのは、エモい優しさ的幸福論ではなくて自殺者対策の問題であり、団塊世代の退職後の問題であり、経済設計の問題であり、社会設計の問題だと思ってます。
僕たちはどういう人生を生きたいのか、どういう社会を生きたいのか。じゃあそのためにどういう社会を設計すべきか。そういうことを意識すると《空っぽの競争》に消耗せず回る社会が形成されるんじゃないかなと。
久しぶりに大きく体調崩して意識が朦朧とするなか書いたブログですが、読んでくれた人ありがとうございました。
グッバイ、デモクラシー - トランプとFacebookと普通の民主主義の話
いやー、ピーターティールまでトランプ支持らしく、なんというか。面白いですね(白目)
こんなツイート見つけたので無理やりFacebookと絡めて書きますね。
※以下の文章は高専情報系卒という15歳から工学系の23歳男性が書いたものなので大いに間違った知識が含まれていると思いますので、あしからず。
普通の民主主義の話
トランプ躍進の背景を理解するには、まず民主主義について説明する必要があると思うのでそこから書きますね。
まず民主主義っていうのは秀才でもバカでも関係なく、被支配集団を平等化しそこから支配者を直接的あるいは間接的に選ぶっていう仕組みなんですけども。
ここで、支配層っていうのは政治家と官僚がいます。政治家は政策に対して責任をもって決定し遂行し、選挙権を持つ被支配者からその妥当性の審判を受ける。一方、官僚は統治機構の専業的仕事を担当するわけですが、官僚はその事項に対して自分の思想信条に関係なくただひたすら機械にようにこなすが責任は一切追わない。政治家は被支配者からの審判を受け、官僚は政治家からの審判を受ける、これで民主主義が回るってことなんですよ。これが政治家と官僚の関係なんです。
しかし、そもそも問題点があって。ここで専業化が進んだ統治行為の妥当性の評価が難しくなってくるんですよ。政治家と官僚は、官僚の専門的業務の妥当性を評価するのにバチバチとやり合わなければならないし、それを評価する民衆の後押しも必要。
まぁだから民衆の賢さに左右されるわけですよね。でも、バカでも秀才でも同じように参加できるのが民主主義なので、バカが多いとヤバいんですよ。
これは、すでにフランスで市民革命が起こったときに出てきた問題なんですけど。革命によって地位の平等化がはかられたわけですが、それまであった教会・ギルド・村落共同体etcによる《旧中間集団》が崩壊し社会の中で徹底的な個人の《原子化》が進んだわけです。そうすると何が起こったかというと、《多数者の専制》というものが出てきたわけです。
これは、トクヴィルっていう人が言ったことなんですけど。何かというと、それまでエリートがやっていた政治を民衆がやるわけなので、最大多数の人たちの声が優先されるわけです。しかも、原子化された社会では理性的な賢い声よりも、感情的で耳心地の良い声にみんななびきます。賢い意見は、感情的意見の圧倒的多数によって排斥されるわけです。
しかし、アメリカでは《近代的アソシエーション》という住民自治を行う集団を形成することで、そこでのコミュニケーションを通して賢い意見を聞き感情的な噴き上がりを抑制してきたわけです。テレビでタレントとかが自分と違うこと言ってても聞く耳持たないけど、友だちが言ってると理性的に聞き入れたりしますよね。そういう感じです。
トランプ躍進の個人的な解釈
じゃあアメリカで何がどうなってトランプなんかが出てきたかというと、まさに《多数者の専制》なんですよ。インターネットの浸透で、同じ地域や同じ世代でも受け取る情報が全然違うんで価値観が変わってくるし、発展途上国の台頭と低賃金労働をする移民によって中間層が経済的に衰退していってるわけですよ。そうすると、鬱憤が溜まり噴き上がりやすくなるし共同体(中間集団)が崩れ始める。そうして、再び個人の《原子化》が進み一層噴き上がりやすくなる。これを宮台真司は《感情の劣化》と呼んでいるのですが、本当に言い得て妙です。個人的な解釈が入りますが、インターネットで知識や情報は手に入りやすくなり知識量から言えば増えているはずで。しかし、僕は「インターネットは晒されすぎて見えすぎている」と思っています。まさに原子化が進みグローバリゼーションという波が個人に押し寄せ、一方で成功してる人たちが必要以上に目に入り妬み嫉みが溜まっていく。そうすると、過激で感情的な意見に社会はなびき、いくらエリート層が冷静に理性的な意見を述べようと《多数者の専制》によって排斥されるわけです。この話題に限れば、ブッシュ、パパブッシュ、ロムニー、マケイン、ポールライアンが党大会で指名しないと言ってるわけですけど、これでトランプじゃない人を共和党が指名しちゃうとエリートによる専制なんですよね。民主主義じゃないんです。
Facebookがトランプを潰そうとするのは妥当という話
これ要約すると、Facebookが意図的にトランプ関連の投稿を削除し悪い情報ばかり流しても合衆国憲法修正第1条によって表現の自由が保証されているので問題ないということなんです。
結構人力で表示順位を変えたりしてるという話もあるので、やろうと思えば出来るんですよね。。。
一つの法人の方針次第で、大統領まで変わるわけです。
もう一つ前に話題になった、iPhoneアンロック問題。
「絶対に政府に手を貸してiPhoneのロック解除をしたくないApple VS 絶対にテロリストのiPhoneのロックを解除して証拠を掴みたいFBI」
っていう構図だったんですけど。Appleが拒み続けるのは正当な理由があって、政府が権力を行使したらAppleはiPhoneのロックを解除するなんて広まれば買わない人が出てきますよね。これを強制するのは、表現の自由(ロックは本人にしか解除できないという指針)の侵害だという見方もあり、民主主義の原則から行って当たり前なんです。
そもそも、民主主義のもう1つ大事なものとして憲法があるんですが。自由主義的近代憲法の考え方は、「権力(政府)は放っておくと暴走するから、憲法によってその権力を制限する」というものです。
法律は国民に向けて書かれるものですが、憲法は政府(統治権力)に向けて書かれるものです。これには、どんな凶悪な犯罪者よりも権力(特に暴力装置)を持つ政府が起こしうる暴走が社会にとっては危険という前提があります(だからこそ合衆国憲法では修正第2条でミリシアの権利=武装権が保証されている)
しかし、アメリカではiPhoneアンロック問題に関してAppleはアンロックに応じるべきという声がかなり多いわけです。常に政府に監視の目を向けるアメリカ社会においては驚くような現象です。これは、テロリストという個人/組織が政府と同じまたはそれ以上にアメリカ社会にとって脅威だと民衆が判断していることの現れです。
グッバイ、デモクラシー
ということで。中間集団の崩壊で《多数者の専制》という現象が起こって意思決定はめちゃくちゃだし、政府という権力は法人やテロ組織に脅かされるしで、民主主義はもうボロボロなわけですよ。そもそも、政府が圧倒的な権力を持ちかつ中間集団がいるという前提の上でしか成り立たないシステムなんですよね。民主主義が資本主義に飲み込まれようとしているんですかね。これからどうなっていくんですかね。
理系院生が全然起業しない日本の現実
こんにちは。
Fラン私立大学学部卒です。
僕、(一応)起業家なんですけども。スタートアップ界隈にいるとまぁみんな高学歴なんですけど、本当に理系(特に院生)で起業してる人が少ないんですよね。僕、大学は編入でその前は高専だったんですけど、高専OBの起業家なんてまぁ少ない。
理系院生とかすげぇ高度人材なのに、年収400万とかで大企業に買い叩かれるわけですよ。博士課程残ったらその間はもっと少ないわけで。その後、就職しても大企業で決められた仕事させられて才能を持て余すという。。。
会社に就職するのは学校に入るような感覚
これ誰が言ったか公表していいのかわからないので名前は伏せますが、どういう意味かというと。会社に入るとやることはだいたい決まってるんですよ。1年目これ、2年目はこれ、みたいな。しかも飛び級は出来ない。1年生のときに3年生のことやると怒られるんですよ。まさに日本の学校教育と同じですよね。
でも今の時代、起業して1人で生きていくための稼ぎなんて結構簡単に稼げるし、数百万〜数千万の調達なんて普通に出来る。覚悟決めて4,5年やれば、年収1000万とか余裕で行くわけですよ(もっと早いかも)。
なんといっても才能はフル活用できるし、飛び級しまくり。バイアウト出来ればサラリーマンが一生かけて稼ぐ金額の数倍〜数十倍が転がり込む。例え失敗しても、そのとき既に普通に働いてる同期とは比べ物にならない成長度合いです、間違いなく。
才能をフル活用した数年と持て余した数年って本当に違います。
今の時代、ファーストキャリアは商社行くよりマッキンゼー行くよりどこ行くよりも起業が一番いいんです。本当に。
成功出来るのは一握りの天才か
これだけ言っても「そんなの成功するのは一握りの天才」と言う人、本当に多いけどそんなことない。
シリコンバレーに目を向ければ、Googleの創業者のセルゲイ・ブリンもラリー・ペイジもスタンフォードの博士課程在籍時に起業してるし、そもそも研究者でもバンバン起業しますよね、向こうは。
確かにGoogleやFacebookレベルの会社を作れる人は、本当に一握り。
でも別にサービス作るコストなんて全然高くないんだから、数億でバイアウト出来ればラッキーくらいでもいいと思うし、エンジニアで2,3人の会社なら、資金調達しないで少人数でやってれば月間数百万くらいの売上で結構ウハウハじゃないですか。
まぁ僕はそれじゃ満足できないのでもっとずっと上を目指すわけですけど、起業する人が増えればそういう人も増えると思うんですよね。
研究者として優秀な人は起業家として優秀か
よく言われるのが
「研究者として優秀な人が起業家/経営者/ビジネスマンとして優秀とは限らない」
ってやつ。なぜ理系院生が起業しないのかって言うの問うとアカデミア側からもビジネス側からもよく聞くやつです。
でも、全然理由になってないんですよ。
起業家として優秀とは限らないかもしれないけど、起業家として優秀じゃないわけでもないですよね。研究していない人も起業家として優秀とは限らないのと同じじゃないですか。むしろ普通の人より、研究で優秀なら起業家としてもいくらか優秀な可能性高いように思うんですよ。
サイエンス系でもエンジニアリング系でも、文系の学生よりは相対的に手に職があるというか、プロダクト開発に親和性があると思うんですよね。起業しやすいはずなんですよ。
エンジニアリング系ならなおさらなんですけど、まぁエンジニア起業家ってまだ少ないですよね。起業しやすいならエンジニア社長のほうが多いはずなのに。
じゃあなぜ少ないかって言うと、「研究者として優秀な人が起業家/経営者/ビジネスマンとして優秀とは限らない」じゃなくて「研究者として優秀な人が起業家/経営者/ビジネスマンとして優秀じゃない」という思い込みがあるんですよ。特にビジネス側に。
どうすれば起業するのか
恐らく、一番の原因は産学連携の少なさというか、研究者がアカデミア側からヘッドハントされてビジネス側に行くってことが少ないせいですよね。
この記事とか面白くて。
実業界に引き抜かれた教授はその後、お金の心配をしなくても良くなります。ただその一方で、(学界に残った)教授は、子どもを大学に生かせるための資金繰りに苦労している。おかしなことですが、これが現実です。実業界に移るというのはとても魅力的なことなのです。そのため、私を含めた学長たちは、彼らが数年間スタートアップを設立したり、大企業に勤めたりすることを推奨し始めています。そして学界に戻ってきてもらうのです。
人材流出という問題を軽視しているわけではありません。何千万ドルにも値する人材をつなぎとめておく方法を考えることで、私の抜け毛も進行してしまいます。ただ、教授たちが持つ世界クラスの能力によって、望むのであれば起業することもできるという事実に、私たちは誇りを感じています
どんどんアカデミア側から引き抜かれるし、その中で起業する人もいる。でもその後に戻ってじっくり研究する人もいるわけで。むしろ一度、企業にヘッドハントされるのがステータスになってるんですよね。こういう状況もっと日本でも作らないとなーと思うわけですよ。
ここで、敵とかめっちゃ作りそうですがあえていいますけど、マジでスタートアップのエンジニアなんて(笑)を何個付けても足りないくらいの技術力が多いですし(僕を含め)、起業してる人たちもバカとアホばっかり(僕を含め)なので、マジで研究室に引き篭もってる天才たちに殴りこんできて欲しいです。
以上、最後まで読んでくれた人。あざした。
Twitterやってます
夢とスタートアップとさまよえる良心
意識高い系に囲まれた自分探し
時期が時期だからなのか、ここ最近将来についての悩みを聞かされることが何度かあった。相談というほどでもないけど、「自分の軸ってなんだろう」とか「本当にやりたいことってなんだろう」という感じのことだ。
最初に言っておきたいが、別に僕は「自分の軸」や「本当にやりたいこと」を探すことを否定したいわけじゃない。そういうものを見つけようとする姿勢は素晴らしいと思うし、自分がやりたいことを見つけてそれが出来ることは尊いと思ってる。
しかし、スタートアップ界隈にいると誰もが素晴らしく壮大な夢を見ているように思えるし自分のやりたい軸を持っているように思えて、そういう軸を持てていない自分に焦りを感じている人が多い。
大学生なんかだと、就活を控えてる人、就活真っ最中な人、内定を貰って自分のファーストキャリアが決まりそうな人、悩みそうな人ばかり。
でもそれは幻想だ。誰もが現実と夢の間を揺れ動きながら生きている。最初からやりたいことがあって大きな夢がある人なんていない。小さな沢山の興味から軽いノリで始めたりして、気付けば(時には自分でも気がつかず)、自分の軸とか夢になってたりする。
でも、大きな夢を語る人たちが多いスタートアップの世界で、小さな目標なんてくだらないように思えてしまうし、下手すると周りから「それ、本当にやりたいことなの?」と詰められたりする。
宮台真司氏の言葉を借りれば、スタートアップは”さまよえる良心”の拠り所だ。意識も能力も高い人たちの鬱屈とした気持ちと自分がそういう状況にあるクソ社会に対する不満が世界を変えたいという気持ちに繋がっているが、しかし従来のように画一的な価値観のない時代の中でなにをしていけばいいのかわからない。その”さまよえる良心”が共鳴するミッションをキラキラしてる(ように見える)スタートアップは与えてくれる。かつて”さまよえる良心”はオウム真理教に吸い寄せられたが、これがスタートアップに変わっただけだ。僕は、性質上社会の営みから逸脱しにくいスタートアップは「安全な宗教」のような機能を果たしていると思っている。
一種の宗教だからこそ、その価値観を信じるか信じないかはその人の勝手だ。別にどちらが正しいなんてない。自分に合わないとか違和感を感じれば無理に受け入れる必要はない。最初に言ったが、「本当にやりたいこと」を探すことを否定はしていない。しかし、押し付ける正当性はないし受け入れる必然性もないということだ。
自分の軸はどこにあるか
もし、自分の軸や大きな夢を見つけたいなら自分の中に探してもないので延々と考えるのはやめたほうがいい。スタートアップの世界ではリーン開発がもてはやされているが、大きな夢や目標を見つけるにもそれがいいと思っている。まずは小さくはじめて、素早く形にしてみる。別に誰もが驚くことをしなくてもいい。優れたプロダクトも最初はくだらないように見える。
起業して自分にミッションを与えた人もそれに共鳴した人も含めて、突然ある日デカい夢を見つけたわけじゃない。目の前の出来ることとそこから見える小さな夢との間を行き来しながら、やれることが大きくなって見える夢も大きくなっていくものだ。むしろそういうことでしか見つけられない。自分の中に「本当にやりたいこと」なんてのはない。小さなことから始めるしかない。「本当にやりたいこと」なんて一種の思い込みだ。
一種の諦めも必要
学生なんてのは、モラトリアムの象徴だ。そこで、他を捨てて自分のやることを見つけるなんてもったいないように思えてみんな色々手を出す。別にそれでいい。そのうち気づけば仕事になるようなことが見つかるかもしれないし、そうじゃなくてもどこかで諦めが生まれみんなそれなりの人生を生きていく。
その点、新卒一括採用というのはモラトリアムを強制的に終わらせて、それなりの仕事とそれなりの承認、そしてそれなりのお金を与えることでそれなりの幸せを提供してくれる。「諦め装置」としていい機能を果たしていると思う。
古市憲寿氏の「希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想」に描かれているように、それなりの承認とそれなりの生活が手に入れば、いい意味でみんな諦めて幸せに生きていくのだ。別に諦めるのは悪いことじゃない。自分が幸せになることを恐れちゃいけない。
突然だが、僕はタモリの生き方が好きだ。タモリは彼自身が言っているように、赤塚不二夫が生み出したと言っても過言じゃない。「これでいいのだ」という言葉でおなじみのバカボンのようにタモリもまた赤塚不二夫作品の一つだ。
赤塚不二夫が亡くなった際にタモリが弔辞を読んだ。リンクを貼っておくので是非最後まで見て欲しい。
この弔辞の中で僕が印象に残っている部分を以下に引用する。
あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。
まさにタモリらしく、そして赤塚不二夫らしい精神だ。自分はどれだけくだらない人間でどれだけくだらない人生だと思えた時に何かから解放されたように生きるのが楽になる。終わりなき日常を受け入れられたとき人は解放される。
余談だが、この8分にも及ぶ弔辞のときタモリが手にしていた紙は白紙だったのだ。真偽は不明だが、タモリが前の日に酒を飲んで帰ったら面倒くさくなり「赤塚さんならギャグでいこう」と白紙の紙を読む勧進帳でやることにしたそうだ。
インターネット社会は見えすぎて晒されすぎている
徐々に大きくなる夢や目標と現実の間で、延々と実現しなければという強迫観念に追われ続けるのではなく、どこかで「これでいいのだ」と諦められたら幸せなんだと思う。しかし、どうしても「これでいいのだ」という自分を許せない人がいる。僕もそういう人種だ。自分で「これでいいのだ」という生き方が好きだと言っておきながら僕はそれを受け入れられない。
僕自身は、小さい頃から北海道の田舎で鬱屈としていたからインターネットによって開けた世界を見つけることができてよかったと思う。しかし、インターネット社会は見えすぎて晒されすぎている。本当は穏やかに日常を過ごしていたようなタイプの人間にも見えすぎているせいでキラキラした世界や生活が目に入ってしまい日常に満足できなくなる。一方、上手くいっている(ように見える)人たちも晒されすぎているから一瞬のミスで引きずり降ろされる。これはインターネットの弊害だ。このインターネット社会で幸せに生きていくためには「これでいいのだ」精神が必要だ。
でも、どうしても諦められない人たちがいる。穏やかな日常とは程遠い熱狂の中で疲弊していくだけかもしれないけど、それでも止まることが出来ない。スタートアップとはそういうものだと思う。こういう人種の人は疲弊しながらも偉業を成し遂げた先人たちを追うしかないのだ。そうやって世界は前進する。だから諦められる人には「これでいいのだ」と幸せに生きて欲しいと思う。
炎上高専生がLiaroに来た話
僕、2年前まで北の辺境の地の高専生だったんです。
まぁ炎上高専生について書く前に自分のことを。
どうでもいいかもしれないけど僕の高専時代
クソ田舎で色々と悶々とするものがありつつ、やることがないのでインターネットと本を読んでひたすら情報オタクになってました。
なんといっても高専1年生のときに図書館にあったNewtonって雑誌の過去10年分を3ヶ月くらいで読んでましたからね。
そして2年生の終わりには、不完全性定理の本を読んで「神は死んだ!」って寮の部屋で叫んでましたしね。
マジキチですよ。しかも童貞ですよ?
童貞のマジキチとかゼッタイ友達になりたくないわ。
まぁそんなこんなで、いち早く北海道から脱出したかった。
そう、早く脱北したかった。
3年の終わり頃には、4年の専門性の高い授業に期待し、
4年ではその期待に裏切られ(←自分が悪い)
5年ではひたすら卒研。
それでクラスの半分が留年する中、超低空飛行で卒業し見事に脱北。
その間もスタートアップのこととか東京のエンジニア勉強会をネットから覗いたりとかしてたけど、全然リアルじゃなかった。
その後、横浜に引っ越してきてからは異常なフットワークの軽さで無計画にいろんなところ行って、
それが何よりいい経験だった。
なんというか、
109が本当にあるし。
六本木ヒルズちょーでかいし。
そこら辺にスタートアップやってる人が沢山いるし。
リアルじゃなかったものがリアルになって、
そこで色々吸収できたなと。
炎上高専生が炎上した。
1月末、母校の高専の後輩がなんか病んでインターネットに火を放ったらよく燃えてしまってたんですよね。
まぁなかなか思い悩んでいたわけですけども、僕は
「おー、あいつのブログもグノシー砲を喰らったか。いやー愉快、愉快。」
って思ってました、すみません。
まぁでもちょっと心配だったので連絡してしょーもないやりとりして
んで、春休み東京くるみたいな感じになってたんですけど、
僕としては、彼エンジニアとして結構スゴイし、休学スタートアップ野郎にしてやろうかと思ってたんです。
だけども、偉い大人たち()に説得させられ頑張って卒業するみたいでw
まぁそれはよかったけども、インターン先の仕事に対するモチベーションが若干下がりつつ、しかも春休みを利用して東京来る予定もやめると言い出し。
なんかもったいなーと。
なぜなら高専時代自分自身の経験があったので。
ノリで後輩を呼んでみた。
ノリに乗っかるかどうか。
どれだけフットワーク軽く出来るか。
これってスーパー大事だと思ってて、最近お世話になっている某VCのかたもノリが大事だと仰っていて(たしか)、僕としてはそれにすごい共感していて。
春休み遊びおいでと言っても色々抵抗するので、
「ノリで来いよ!ノリ〜ノリ〜!!」
と誘ってみたらなんと、
「そうですね、海苔、海苔〜!」
って感じでノッてきました(誤字じゃないです)。
ホントはLiaroの仕事してもらいたかったけど
「こいつイケてるな!」と思い色々連れ回したり自由に行動させたりしてみたら、
最終的には休学(退学)して起業してる人たちを目の前にしたmeetupで
「僕はリモート通学スタートアップ野郎です!」
「休学スタートアップ野郎だけが正義じゃねーぞ!クソが!」
みたいな感じでまたインターネットに火を放つほど躍動してくれて。
そしてなんだかんだ今のインターン先への愛も戻ったみたいだし
なにより帰るときには
「本当にノリできてよかったです!」
って言って帰っていったのがめっちゃ良かったなぁと。
メンヘラ気味だった2ヶ月前の彼も今では元気そうで。
男のメンヘラほど気持ち悪いものは無いと思います
— mktakuya (@mktakuya) 2015, 3月 29
「普通の人でも回せる仕組み」を作るべきか否か
最近なにキッカケかわからないけど、
スタートアップにおいて「普通の人でも回せる仕組み」を作るべきかどうかの議論が散見されるなぁと。
「普通の人でも回せる仕組み」を最初から作る必要はない — How To Create Startup — Medium
けんすうさんキッカケなのかな?
そもそも「普通の人でも回せる仕組み」とは
これって要するに、バカでも機械的にやれば出来るように頭のいい僕らが言語化してマニュアルにしちゃおうぜってことだと思う(日本語が不自由なのはご了承)
多分最初にこういう話聞いたのは、ひろゆきさんが2ちゃんねるをやめた理由みたいなのを語ってた時だと思う。
「誰でも回せるような仕組みを作っていったら最終的に僕も要らなくなったんでやめました(白目」
みたいな。
じゃあそれって必要なのか
とりあえずスタートアップ以外ではどうなのかと言うと。
2ちゃんねるには必要だったんだと思う。っていうよりその方がいいから。
あれは書き込む人たちに自由にやらせておけばよくて、管理者側は落ちないように運用保守しておけばいいわけ。
クリエイティブな部分は全くないらなくてマニュアル化最高って感じ。
あと社員がバカみたいにいる大企業には部分的にでも絶対その仕組みないと管理しきれないとは思う。
全体がそうなると優秀な人が能力が発揮できず死んでいくので大企業病的なものにつながる気がするけど。
普通の人でも回せるような仕組みってそのルールの中でしか動けないわけだし、あるタスクに関しては誰が優秀かはそのタスクごとで変わるわけで、トップがすべて決めるっやるとそいつがある意味ボトルネックになる。
つまり全員の能力を最大限活かすには、トップがチーム全員の能力をあらゆる面で凌駕していなきゃいけないわけで全知全能じゃないといけない。
なんだそれ、神か。
ってなるわけ。
現実的には「普通の人でも回せる仕組み」を作ると、どんなに頑張ってもそこに関わる人たちの最大公約数的な力しか発揮できないんじゃないかと思う。
人が少ない、能力もそこそこな、みたいなことが多いスタートアップでこんなんになったらオワコンだなーとは思う。
逆にある程度人数がいる組織なのに仕組み化しなくても回せてる会社ってないのかなと考えると1つだけ浮かんで。
某チー◯◯ボかなと。
学生の頃に1年ほどエンジニアとしてバイトさせてもらったけど、すごく有機的な組織だなと感じた。
大まかな緩めのルールとかはある。
ただ緩い
有機的な繋がり中の相互干渉と自己組織化的動きをを大切にしていて、それが某ラボのクリエイティビティを生んでいるのかなとは個人的に考えている。
世の中に存在する複雑なネットワーク構造を持つものは基本的にはこういう構造で。
複雑ネットワークっていわれてる分野の知見ですけども、少しのルールだけでも個々が自律的に動き相互干渉するような勝手に有機的な繋がりの中で”創発”し、何かを生み出し、その局所的な創発がネットワーク全体にも影響を与える。それがまた全体の緩いルールになっていき、その流れが動的組織化を促しシステムは回っていくもので。
社会ネットワークもそうだし、人間1個体もある意味で複雑なネットワークで遺伝子に全部細かなルールが書かれてるわけでも脳みそが全部指令してるわけでもなく、有機的なネットワークの中で構成要素が相互干渉により創発して人間というシステムを動かしてるんですね。
うん、すごい。
そういうネットワークには構成要素の変化によって”相転移”も勝手に起こる。そして勝手に最適化されていくわけで人数とか規模とか究極的には関係ないのかなって。そういう組織作っていきたいなぁーと思う今日この頃です。
文化祭の前日みたいな感じ
某チー◯◯ボのどこが良いかって話で、「文化祭の前日みたいな感じ」って言ってる人がいて、あぁなるほどまさにそれだなって思った。
この「文化祭の前日みたいな感じ」がスタートアップ特有のもので、これがなくなった瞬間あの大企業病が襲ってくるし、組織が無機質になるのかなと。
有機的なネットワークを大切にするような文化を作れば、むしろ某ラボみたいに3,400人規模とかになってもみんなが緩いルールの中でわちゃわちゃして組織は回る、「文化祭の前日みたいな感じ」が保てるんじゃないのかなって最近は思ってます。
結論
結局なにが結論かというと、確かに仕組み化は属人化を防ぐには良いけど、やっぱりスタートアップって「文化祭の前日みたいな感じ終わらない文化祭の前日みたいな感じ」大事にしていきたい。
終わり。