ツイッタラーの弁明

Liaroの窓際戸締役です。特にソクラテスは好きではありません。

夢とスタートアップとさまよえる良心

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意識高い系に囲まれた自分探し

時期が時期だからなのか、ここ最近将来についての悩みを聞かされることが何度かあった。相談というほどでもないけど、「自分の軸ってなんだろう」とか「本当にやりたいことってなんだろう」という感じのことだ。

最初に言っておきたいが、別に僕は「自分の軸」や「本当にやりたいこと」を探すことを否定したいわけじゃない。そういうものを見つけようとする姿勢は素晴らしいと思うし、自分がやりたいことを見つけてそれが出来ることは尊いと思ってる。

しかし、スタートアップ界隈にいると誰もが素晴らしく壮大な夢を見ているように思えるし自分のやりたい軸を持っているように思えて、そういう軸を持てていない自分に焦りを感じている人が多い。

大学生なんかだと、就活を控えてる人、就活真っ最中な人、内定を貰って自分のファーストキャリアが決まりそうな人、悩みそうな人ばかり。

でもそれは幻想だ。誰もが現実と夢の間を揺れ動きながら生きている。最初からやりたいことがあって大きな夢がある人なんていない。小さな沢山の興味から軽いノリで始めたりして、気付けば(時には自分でも気がつかず)、自分の軸とか夢になってたりする。

でも、大きな夢を語る人たちが多いスタートアップの世界で、小さな目標なんてくだらないように思えてしまうし、下手すると周りから「それ、本当にやりたいことなの?」と詰められたりする。

宮台真司氏の言葉を借りれば、スタートアップは”さまよえる良心”の拠り所だ。意識も能力も高い人たちの鬱屈とした気持ちと自分がそういう状況にあるクソ社会に対する不満が世界を変えたいという気持ちに繋がっているが、しかし従来のように画一的な価値観のない時代の中でなにをしていけばいいのかわからない。その”さまよえる良心”が共鳴するミッションをキラキラしてる(ように見える)スタートアップは与えてくれる。かつて”さまよえる良心”はオウム真理教に吸い寄せられたが、これがスタートアップに変わっただけだ。僕は、性質上社会の営みから逸脱しにくいスタートアップは「安全な宗教」のような機能を果たしていると思っている。

一種の宗教だからこそ、その価値観を信じるか信じないかはその人の勝手だ。別にどちらが正しいなんてない。自分に合わないとか違和感を感じれば無理に受け入れる必要はない。最初に言ったが、「本当にやりたいこと」を探すことを否定はしていない。しかし、押し付ける正当性はないし受け入れる必然性もないということだ。

自分の軸はどこにあるか

もし、自分の軸や大きな夢を見つけたいなら自分の中に探してもないので延々と考えるのはやめたほうがいい。スタートアップの世界ではリーン開発がもてはやされているが、大きな夢や目標を見つけるにもそれがいいと思っている。まずは小さくはじめて、素早く形にしてみる。別に誰もが驚くことをしなくてもいい。優れたプロダクトも最初はくだらないように見える。

起業して自分にミッションを与えた人もそれに共鳴した人も含めて、突然ある日デカい夢を見つけたわけじゃない。目の前の出来ることとそこから見える小さな夢との間を行き来しながら、やれることが大きくなって見える夢も大きくなっていくものだ。むしろそういうことでしか見つけられない。自分の中に「本当にやりたいこと」なんてのはない。小さなことから始めるしかない。「本当にやりたいこと」なんて一種の思い込みだ。

一種の諦めも必要

学生なんてのは、モラトリアムの象徴だ。そこで、他を捨てて自分のやることを見つけるなんてもったいないように思えてみんな色々手を出す。別にそれでいい。そのうち気づけば仕事になるようなことが見つかるかもしれないし、そうじゃなくてもどこかで諦めが生まれみんなそれなりの人生を生きていく。

その点、新卒一括採用というのはモラトリアムを強制的に終わらせて、それなりの仕事とそれなりの承認、そしてそれなりのお金を与えることでそれなりの幸せを提供してくれる。「諦め装置」としていい機能を果たしていると思う。

古市憲寿氏の「希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想」に描かれているように、それなりの承認とそれなりの生活が手に入れば、いい意味でみんな諦めて幸せに生きていくのだ。別に諦めるのは悪いことじゃない。自分が幸せになることを恐れちゃいけない。

突然だが、僕はタモリの生き方が好きだ。タモリは彼自身が言っているように、赤塚不二夫が生み出したと言っても過言じゃない。「これでいいのだ」という言葉でおなじみのバカボンのようにタモリもまた赤塚不二夫作品の一つだ。

赤塚不二夫が亡くなった際にタモリが弔辞を読んだ。リンクを貼っておくので是非最後まで見て欲しい。

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この弔辞の中で僕が印象に残っている部分を以下に引用する。

あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。

まさにタモリらしく、そして赤塚不二夫らしい精神だ。自分はどれだけくだらない人間でどれだけくだらない人生だと思えた時に何かから解放されたように生きるのが楽になる。終わりなき日常を受け入れられたとき人は解放される。

余談だが、この8分にも及ぶ弔辞のときタモリが手にしていた紙は白紙だったのだ。真偽は不明だが、タモリが前の日に酒を飲んで帰ったら面倒くさくなり「赤塚さんならギャグでいこう」と白紙の紙を読む勧進帳でやることにしたそうだ。

インターネット社会は見えすぎて晒されすぎている

徐々に大きくなる夢や目標と現実の間で、延々と実現しなければという強迫観念に追われ続けるのではなく、どこかで「これでいいのだ」と諦められたら幸せなんだと思う。しかし、どうしても「これでいいのだ」という自分を許せない人がいる。僕もそういう人種だ。自分で「これでいいのだ」という生き方が好きだと言っておきながら僕はそれを受け入れられない。

僕自身は、小さい頃から北海道の田舎で鬱屈としていたからインターネットによって開けた世界を見つけることができてよかったと思う。しかし、インターネット社会は見えすぎて晒されすぎている。本当は穏やかに日常を過ごしていたようなタイプの人間にも見えすぎているせいでキラキラした世界や生活が目に入ってしまい日常に満足できなくなる。一方、上手くいっている(ように見える)人たちも晒されすぎているから一瞬のミスで引きずり降ろされる。これはインターネットの弊害だ。このインターネット社会で幸せに生きていくためには「これでいいのだ」精神が必要だ。

でも、どうしても諦められない人たちがいる。穏やかな日常とは程遠い熱狂の中で疲弊していくだけかもしれないけど、それでも止まることが出来ない。スタートアップとはそういうものだと思う。こういう人種の人は疲弊しながらも偉業を成し遂げた先人たちを追うしかないのだ。そうやって世界は前進する。だから諦められる人には「これでいいのだ」と幸せに生きて欲しいと思う。

 

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