ツイッタラーの弁明

Liaroの窓際戸締役です。特にソクラテスは好きではありません。

マッチョイズム的競争社会

 

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僕、こんな感じでときどきエモいブログ書いたりツイートしたりするんですけど。

hanaken.hatenablog.com

 

こういうポエム的なのは、理性的に語るより感性に訴えるためにあえてポエム的に書いてます。でもここで言いたい本質はエモい優しさ的幸福論とかじゃなくて社会問題としての《諦めさせない社会》についてなんですよね。なので、これについてまじめに書いてみます。

 

マッチョイズム的競争社会

先に言っておくと、僕自身は家にいても本当にやることがないので基本的に仕事してる感じですし、スタートアップ界隈の人たちがそういうマッチョイズム的な感じでバリバリ働いて競争していることに異議を唱えたいわけではないです。むしろスタートアップで競争してバリバリ働くのは、当事者は大変ですが社会的意義は大きいと思ってます。これについては後ほど書きます。

このマッチョイズム的競争社会を簡単に言うと、「男は◯◯じゃなきゃいけない」みたいなやつです。男らしさってやつです。「男は強くなきゃいけない」「男は弱音を吐いてはいけない」「男は泣いてはいけない」「男は働いて稼いで家庭を支えなければいけない」例を上げればキリがない。

こういう◯◯でなければいけないという男性像を親や社会から押し付けられることで、本人もそうじゃなきゃいけないと錯覚して、より強く生きてより稼ぐことが男の価値だと信じて生きていくわけです。

つまりこれはジェンダー的問題です。

日本でも女性に対して、「女性は家庭に入って家事育児に励まなきゃいけない」「女性はおしとやかじゃなきゃいけない」「女性は男性をたてなきゃいけない」みたいなこと言うと、は?みたいな感じですよ。

女性らしさ幻想と一緒に男性らしさ幻想も捨てないと男性の家事育児への参加が期待できず、女性の社会進出も労働力不足を補うための経済政策としてしか機能せず、女性も働きアリになるだけです。選択肢として働ける社会なのか、働かざるおえない社会なのかって全然意味が違います。

しかし男性に対しては、「稼いでなんぼ」みたいに思ってる人が、若者でも男女問わず未だに少ないと思います。だからこそ、定年まで長時間労働して死ぬほど働いて辛くても弱音を吐かず我慢するみたいなことが普通にあるわけです。家庭で弱音を吐いたり、ましてや仕事辞めたいなんて言える夫婦関係気づけている人まだまだ少ないと思いますし。

それを証明するかのように、日本の男性の自殺者は女性の約2.5倍なんですよね。特に中高年層が高くて、他人に悩みを話すのはいけないと思っている人が有意に高いらしいんですよね。実際、悩みって解決するかよりも愚痴れるかどうかで気持ち変わります。自衛隊でも弱音を吐く人のほうが心が折れず訓練を続けられると言いますし。弱音を吐けないという脅迫観念に迫られてるんです。

「裕福じゃなきゃそんなこと言ってられない。だから男のほうが稼ぎやすいから夫に働いてもらわないと」なんて言うかもしれないけど、それは経済問題であってこういうマッチョイズムが肯定される理由ではないんです。

 

長時間労働でしか回らない社会は回っているのか

日本は良い成果を効率的に出すよりも苦労して沢山働くことが評価されます。しかも、みんながみんな必死で働いてるのが評価される。逆に定時で帰って家庭の時間を大切にする人は評価されるとは限りません。1人当たりのGDPを更に総労働時間で割ると相当日本って低そうですよね。でもそれで経済回ってんだ!とかいう人いるかもしれないですけど、そんなみんながギチギチに働いて先進国の中でも特に高い自殺率の社会って本当に回ってるんですかね。

マッチョイズムで沢山働くことが評価されて、どんどん競争を煽って消耗していくわけです。週30時間働いて家庭を大事にしてますって素晴らしいじゃないですか。でも、生産性の低い日本の労働環境では難しい。

競争自体が悪いわけじゃないんです。なんのために競争してるのかってことです。スタートアップなら社会を変えたいと思って必死にやるわけですけど、多くのサラリーマンはそんなに競争する必要はないです。その競争に自己超越的な目的がないんです。《空っぽの競争》です。家計を支えられればいいわけで、定年まで必死に長時間労働しないと家計が支えられないっておかしくないですか?他の先進国では、もっと効率的に働いて家計を支えていますよね。

 

職場以外の人間関係が薄い社会

団塊世代付近が続々定年退職してるわけですけども、奥さんと話すことなくて辛いとかどうやって過ごせばいいかわからなくて辛いとか結構あるらしいんです。

若者からしたら、異常な状態ですよ。でも働き出すと、ワーク・ライフ・バランスなんてものはなく。退職後の毎日を充実に過ごせるほどの趣味も人間関係も職場以外にないんです。職場のOB会ってめちゃくちゃ盛り上がるらしく、でも最近は少なくなってきてるみたいだし。

 

《諦めさせない社会》

日本は《諦めさせない社会》です。やっぱ稼いで出世するのが勝ちみたいなのがまだ根強くて、俺はそこそこの稼ぎでそこそこの家庭でっていう諦めがあまり評価されにくいです。でも「人生ってこんなもんだろ」とか「社会ってこんなもんだろ」みたいな諦め的な達観って穏やかに幸せに生きるのには重要です。

今の若者はさとり世代なんて呼ばれてますけど、将来への不安は高いのに幸福だと感じている人は多いんです。古市憲寿氏の「希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想」で紹介されてるように、高い志持って色々将来に期待してる人もピースボートのって友だち出来て、共同体の中に埋め込まれると《諦め的達観》が出て欲求レベルが下がって幸せに生きていくわけです。

ワーク・ライフ・バランスって言うと薄っぺらく聞こえますけど、ライフを充実させるために家族や友人との時間を増やすわけですけど。そのためには必然的にワークをより効率的で生産性の高いものにせざるを得ないわけです。

だからこそ、家庭やプライベートを大事にしながらある程度稼ぐ(男女問わず)っていうの”も”評価される社会になると必然的に生産性は高くなるわけです。そういう意味で《諦め的達観》が評価される社会になるというのは、エモい優しさ的幸福論ではなくて自殺者対策の問題であり、団塊世代の退職後の問題であり、経済設計の問題であり、社会設計の問題だと思ってます。

僕たちはどういう人生を生きたいのか、どういう社会を生きたいのか。じゃあそのためにどういう社会を設計すべきか。そういうことを意識すると《空っぽの競争》に消耗せず回る社会が形成されるんじゃないかなと。

 

久しぶりに大きく体調崩して意識が朦朧とするなか書いたブログですが、読んでくれた人ありがとうございました。

 

Twitterやってます https://twitter.com/hanaken_nirvana