自由と幸福。あるいは不自由を知ることについて。
”自由である”という”認識”は不自由に盲目だということである。
しかし、自由であるということは不自由を知るということである。
選択肢を知り、どうなるかを知り、それらを決定することが自由である。
なにもないところに選択の余地はない。
自由とはなんらかのシステムの上で成り立つものである。
それはつまり同時にシステムに制約を受けることでもある。
人間が自由を謳歌するには舞台が必要である。
しかし、同時にその舞台に縛られる存在でもある。
自由というのは不自由を知ることである。
そういう意味で自由とは幸せの対極にあるのである。
自由意志、選択、合理化。
あらゆるものが計算可能化された世界の行き着く先は自由意志の計算可能化である。
自由意志とは、独立して人間が持つ機能でなく、何かのシステムに縛られ影響を受けた結果起こり得る1つの事象でしかないことが証明される。
自由が幻想だったことが白日の下に晒される。
自由とは足掻きである。
コントロール不可能な時間の流れをコントロールできるかのように、あらゆる影響から独立した"自分自身"が選択し未来をコントロールできるかのように、錯覚し足掻くことこそが自由。
近代化以後の自由意志と計算可能化の流れによって、あらゆるものから解放されようとした結果、人々の存在は社会の中の交点から世界という空虚に彷徨う点になる。
世界という空虚の中では自由というものはない。
そしてそれをまた社会の中で意味ある交点に引き戻すのは全てを計算可能化した存在=AIなのだと思う。
自由とはただの幻想であったと気がつく。