夢とスタートアップとさまよえる良心
意識高い系に囲まれた自分探し
時期が時期だからなのか、ここ最近将来についての悩みを聞かされることが何度かあった。相談というほどでもないけど、「自分の軸ってなんだろう」とか「本当にやりたいことってなんだろう」という感じのことだ。
最初に言っておきたいが、別に僕は「自分の軸」や「本当にやりたいこと」を探すことを否定したいわけじゃない。そういうものを見つけようとする姿勢は素晴らしいと思うし、自分がやりたいことを見つけてそれが出来ることは尊いと思ってる。
しかし、スタートアップ界隈にいると誰もが素晴らしく壮大な夢を見ているように思えるし自分のやりたい軸を持っているように思えて、そういう軸を持てていない自分に焦りを感じている人が多い。
大学生なんかだと、就活を控えてる人、就活真っ最中な人、内定を貰って自分のファーストキャリアが決まりそうな人、悩みそうな人ばかり。
でもそれは幻想だ。誰もが現実と夢の間を揺れ動きながら生きている。最初からやりたいことがあって大きな夢がある人なんていない。小さな沢山の興味から軽いノリで始めたりして、気付けば(時には自分でも気がつかず)、自分の軸とか夢になってたりする。
でも、大きな夢を語る人たちが多いスタートアップの世界で、小さな目標なんてくだらないように思えてしまうし、下手すると周りから「それ、本当にやりたいことなの?」と詰められたりする。
宮台真司氏の言葉を借りれば、スタートアップは”さまよえる良心”の拠り所だ。意識も能力も高い人たちの鬱屈とした気持ちと自分がそういう状況にあるクソ社会に対する不満が世界を変えたいという気持ちに繋がっているが、しかし従来のように画一的な価値観のない時代の中でなにをしていけばいいのかわからない。その”さまよえる良心”が共鳴するミッションをキラキラしてる(ように見える)スタートアップは与えてくれる。かつて”さまよえる良心”はオウム真理教に吸い寄せられたが、これがスタートアップに変わっただけだ。僕は、性質上社会の営みから逸脱しにくいスタートアップは「安全な宗教」のような機能を果たしていると思っている。
一種の宗教だからこそ、その価値観を信じるか信じないかはその人の勝手だ。別にどちらが正しいなんてない。自分に合わないとか違和感を感じれば無理に受け入れる必要はない。最初に言ったが、「本当にやりたいこと」を探すことを否定はしていない。しかし、押し付ける正当性はないし受け入れる必然性もないということだ。
自分の軸はどこにあるか
もし、自分の軸や大きな夢を見つけたいなら自分の中に探してもないので延々と考えるのはやめたほうがいい。スタートアップの世界ではリーン開発がもてはやされているが、大きな夢や目標を見つけるにもそれがいいと思っている。まずは小さくはじめて、素早く形にしてみる。別に誰もが驚くことをしなくてもいい。優れたプロダクトも最初はくだらないように見える。
起業して自分にミッションを与えた人もそれに共鳴した人も含めて、突然ある日デカい夢を見つけたわけじゃない。目の前の出来ることとそこから見える小さな夢との間を行き来しながら、やれることが大きくなって見える夢も大きくなっていくものだ。むしろそういうことでしか見つけられない。自分の中に「本当にやりたいこと」なんてのはない。小さなことから始めるしかない。「本当にやりたいこと」なんて一種の思い込みだ。
一種の諦めも必要
学生なんてのは、モラトリアムの象徴だ。そこで、他を捨てて自分のやることを見つけるなんてもったいないように思えてみんな色々手を出す。別にそれでいい。そのうち気づけば仕事になるようなことが見つかるかもしれないし、そうじゃなくてもどこかで諦めが生まれみんなそれなりの人生を生きていく。
その点、新卒一括採用というのはモラトリアムを強制的に終わらせて、それなりの仕事とそれなりの承認、そしてそれなりのお金を与えることでそれなりの幸せを提供してくれる。「諦め装置」としていい機能を果たしていると思う。
古市憲寿氏の「希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想」に描かれているように、それなりの承認とそれなりの生活が手に入れば、いい意味でみんな諦めて幸せに生きていくのだ。別に諦めるのは悪いことじゃない。自分が幸せになることを恐れちゃいけない。
突然だが、僕はタモリの生き方が好きだ。タモリは彼自身が言っているように、赤塚不二夫が生み出したと言っても過言じゃない。「これでいいのだ」という言葉でおなじみのバカボンのようにタモリもまた赤塚不二夫作品の一つだ。
赤塚不二夫が亡くなった際にタモリが弔辞を読んだ。リンクを貼っておくので是非最後まで見て欲しい。
この弔辞の中で僕が印象に残っている部分を以下に引用する。
あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。
まさにタモリらしく、そして赤塚不二夫らしい精神だ。自分はどれだけくだらない人間でどれだけくだらない人生だと思えた時に何かから解放されたように生きるのが楽になる。終わりなき日常を受け入れられたとき人は解放される。
余談だが、この8分にも及ぶ弔辞のときタモリが手にしていた紙は白紙だったのだ。真偽は不明だが、タモリが前の日に酒を飲んで帰ったら面倒くさくなり「赤塚さんならギャグでいこう」と白紙の紙を読む勧進帳でやることにしたそうだ。
インターネット社会は見えすぎて晒されすぎている
徐々に大きくなる夢や目標と現実の間で、延々と実現しなければという強迫観念に追われ続けるのではなく、どこかで「これでいいのだ」と諦められたら幸せなんだと思う。しかし、どうしても「これでいいのだ」という自分を許せない人がいる。僕もそういう人種だ。自分で「これでいいのだ」という生き方が好きだと言っておきながら僕はそれを受け入れられない。
僕自身は、小さい頃から北海道の田舎で鬱屈としていたからインターネットによって開けた世界を見つけることができてよかったと思う。しかし、インターネット社会は見えすぎて晒されすぎている。本当は穏やかに日常を過ごしていたようなタイプの人間にも見えすぎているせいでキラキラした世界や生活が目に入ってしまい日常に満足できなくなる。一方、上手くいっている(ように見える)人たちも晒されすぎているから一瞬のミスで引きずり降ろされる。これはインターネットの弊害だ。このインターネット社会で幸せに生きていくためには「これでいいのだ」精神が必要だ。
でも、どうしても諦められない人たちがいる。穏やかな日常とは程遠い熱狂の中で疲弊していくだけかもしれないけど、それでも止まることが出来ない。スタートアップとはそういうものだと思う。こういう人種の人は疲弊しながらも偉業を成し遂げた先人たちを追うしかないのだ。そうやって世界は前進する。だから諦められる人には「これでいいのだ」と幸せに生きて欲しいと思う。
炎上高専生がLiaroに来た話
僕、2年前まで北の辺境の地の高専生だったんです。
まぁ炎上高専生について書く前に自分のことを。
どうでもいいかもしれないけど僕の高専時代
クソ田舎で色々と悶々とするものがありつつ、やることがないのでインターネットと本を読んでひたすら情報オタクになってました。
なんといっても高専1年生のときに図書館にあったNewtonって雑誌の過去10年分を3ヶ月くらいで読んでましたからね。
そして2年生の終わりには、不完全性定理の本を読んで「神は死んだ!」って寮の部屋で叫んでましたしね。
マジキチですよ。しかも童貞ですよ?
童貞のマジキチとかゼッタイ友達になりたくないわ。
まぁそんなこんなで、いち早く北海道から脱出したかった。
そう、早く脱北したかった。
3年の終わり頃には、4年の専門性の高い授業に期待し、
4年ではその期待に裏切られ(←自分が悪い)
5年ではひたすら卒研。
それでクラスの半分が留年する中、超低空飛行で卒業し見事に脱北。
その間もスタートアップのこととか東京のエンジニア勉強会をネットから覗いたりとかしてたけど、全然リアルじゃなかった。
その後、横浜に引っ越してきてからは異常なフットワークの軽さで無計画にいろんなところ行って、
それが何よりいい経験だった。
なんというか、
109が本当にあるし。
六本木ヒルズちょーでかいし。
そこら辺にスタートアップやってる人が沢山いるし。
リアルじゃなかったものがリアルになって、
そこで色々吸収できたなと。
炎上高専生が炎上した。
1月末、母校の高専の後輩がなんか病んでインターネットに火を放ったらよく燃えてしまってたんですよね。
まぁなかなか思い悩んでいたわけですけども、僕は
「おー、あいつのブログもグノシー砲を喰らったか。いやー愉快、愉快。」
って思ってました、すみません。
まぁでもちょっと心配だったので連絡してしょーもないやりとりして
んで、春休み東京くるみたいな感じになってたんですけど、
僕としては、彼エンジニアとして結構スゴイし、休学スタートアップ野郎にしてやろうかと思ってたんです。
だけども、偉い大人たち()に説得させられ頑張って卒業するみたいでw
まぁそれはよかったけども、インターン先の仕事に対するモチベーションが若干下がりつつ、しかも春休みを利用して東京来る予定もやめると言い出し。
なんかもったいなーと。
なぜなら高専時代自分自身の経験があったので。
ノリで後輩を呼んでみた。
ノリに乗っかるかどうか。
どれだけフットワーク軽く出来るか。
これってスーパー大事だと思ってて、最近お世話になっている某VCのかたもノリが大事だと仰っていて(たしか)、僕としてはそれにすごい共感していて。
春休み遊びおいでと言っても色々抵抗するので、
「ノリで来いよ!ノリ〜ノリ〜!!」
と誘ってみたらなんと、
「そうですね、海苔、海苔〜!」
って感じでノッてきました(誤字じゃないです)。
ホントはLiaroの仕事してもらいたかったけど
「こいつイケてるな!」と思い色々連れ回したり自由に行動させたりしてみたら、
最終的には休学(退学)して起業してる人たちを目の前にしたmeetupで
「僕はリモート通学スタートアップ野郎です!」
「休学スタートアップ野郎だけが正義じゃねーぞ!クソが!」
みたいな感じでまたインターネットに火を放つほど躍動してくれて。
そしてなんだかんだ今のインターン先への愛も戻ったみたいだし
なにより帰るときには
「本当にノリできてよかったです!」
って言って帰っていったのがめっちゃ良かったなぁと。
メンヘラ気味だった2ヶ月前の彼も今では元気そうで。
男のメンヘラほど気持ち悪いものは無いと思います
— mktakuya (@mktakuya) 2015, 3月 29
「普通の人でも回せる仕組み」を作るべきか否か
最近なにキッカケかわからないけど、
スタートアップにおいて「普通の人でも回せる仕組み」を作るべきかどうかの議論が散見されるなぁと。
「普通の人でも回せる仕組み」を最初から作る必要はない — How To Create Startup — Medium
けんすうさんキッカケなのかな?
そもそも「普通の人でも回せる仕組み」とは
これって要するに、バカでも機械的にやれば出来るように頭のいい僕らが言語化してマニュアルにしちゃおうぜってことだと思う(日本語が不自由なのはご了承)
多分最初にこういう話聞いたのは、ひろゆきさんが2ちゃんねるをやめた理由みたいなのを語ってた時だと思う。
「誰でも回せるような仕組みを作っていったら最終的に僕も要らなくなったんでやめました(白目」
みたいな。
じゃあそれって必要なのか
とりあえずスタートアップ以外ではどうなのかと言うと。
2ちゃんねるには必要だったんだと思う。っていうよりその方がいいから。
あれは書き込む人たちに自由にやらせておけばよくて、管理者側は落ちないように運用保守しておけばいいわけ。
クリエイティブな部分は全くないらなくてマニュアル化最高って感じ。
あと社員がバカみたいにいる大企業には部分的にでも絶対その仕組みないと管理しきれないとは思う。
全体がそうなると優秀な人が能力が発揮できず死んでいくので大企業病的なものにつながる気がするけど。
普通の人でも回せるような仕組みってそのルールの中でしか動けないわけだし、あるタスクに関しては誰が優秀かはそのタスクごとで変わるわけで、トップがすべて決めるっやるとそいつがある意味ボトルネックになる。
つまり全員の能力を最大限活かすには、トップがチーム全員の能力をあらゆる面で凌駕していなきゃいけないわけで全知全能じゃないといけない。
なんだそれ、神か。
ってなるわけ。
現実的には「普通の人でも回せる仕組み」を作ると、どんなに頑張ってもそこに関わる人たちの最大公約数的な力しか発揮できないんじゃないかと思う。
人が少ない、能力もそこそこな、みたいなことが多いスタートアップでこんなんになったらオワコンだなーとは思う。
逆にある程度人数がいる組織なのに仕組み化しなくても回せてる会社ってないのかなと考えると1つだけ浮かんで。
某チー◯◯ボかなと。
学生の頃に1年ほどエンジニアとしてバイトさせてもらったけど、すごく有機的な組織だなと感じた。
大まかな緩めのルールとかはある。
ただ緩い
有機的な繋がり中の相互干渉と自己組織化的動きをを大切にしていて、それが某ラボのクリエイティビティを生んでいるのかなとは個人的に考えている。
世の中に存在する複雑なネットワーク構造を持つものは基本的にはこういう構造で。
複雑ネットワークっていわれてる分野の知見ですけども、少しのルールだけでも個々が自律的に動き相互干渉するような勝手に有機的な繋がりの中で”創発”し、何かを生み出し、その局所的な創発がネットワーク全体にも影響を与える。それがまた全体の緩いルールになっていき、その流れが動的組織化を促しシステムは回っていくもので。
社会ネットワークもそうだし、人間1個体もある意味で複雑なネットワークで遺伝子に全部細かなルールが書かれてるわけでも脳みそが全部指令してるわけでもなく、有機的なネットワークの中で構成要素が相互干渉により創発して人間というシステムを動かしてるんですね。
うん、すごい。
そういうネットワークには構成要素の変化によって”相転移”も勝手に起こる。そして勝手に最適化されていくわけで人数とか規模とか究極的には関係ないのかなって。そういう組織作っていきたいなぁーと思う今日この頃です。
文化祭の前日みたいな感じ
某チー◯◯ボのどこが良いかって話で、「文化祭の前日みたいな感じ」って言ってる人がいて、あぁなるほどまさにそれだなって思った。
この「文化祭の前日みたいな感じ」がスタートアップ特有のもので、これがなくなった瞬間あの大企業病が襲ってくるし、組織が無機質になるのかなと。
有機的なネットワークを大切にするような文化を作れば、むしろ某ラボみたいに3,400人規模とかになってもみんなが緩いルールの中でわちゃわちゃして組織は回る、「文化祭の前日みたいな感じ」が保てるんじゃないのかなって最近は思ってます。
結論
結局なにが結論かというと、確かに仕組み化は属人化を防ぐには良いけど、やっぱりスタートアップって「文化祭の前日みたいな感じ終わらない文化祭の前日みたいな感じ」大事にしていきたい。
終わり。
高熱で寝込んでて生きるのが辛いから俺は本田翼と同じ空気を吸っていることを証明してみたよ。
関東の暑さとエアコンの寒さのGAPにより風邪を引いた北海道民です。
身体中が痛くて開発する元気もなく、頭が痛くて本を読む集中力もないです。
まぁ、それは置いといて。
何もできることがなく辛いので、作ったはいいが放置していたブログを書いてみようと思います。
以前、ある物理学者の話で
「やる気がどうしても出ないとき、自分は今アインシュタインと同じ空気を吸っていると考えるようにしている」
という話を聞いた。いわゆるフェルミ推定の話しらしい。
物理学者らしいなぁw
そこで、その物理学者にならって
「俺は本田翼と同じ空気を吸っているのだ。」
ということを証明してこの風邪を乗り切ろうと思う。
証明のおおまかな流れ
「同じ空気を吸っている」の厳密な定義として「同じ酸素分子を吸っている」にしようと思う。
- 一呼吸で成人が吸う酸素の量を推定
- 大気中の酸素に対する一呼吸で吸う酸素の割合を推定
- 本田翼の一呼吸に含まれる酸素分子数を推定し、2に掛け合わせる。
この流れで行こうと思う。
1.一呼吸で成人が吸う酸素の量を推定
まず、成人が一呼吸で何ml空気を吸うか考えると、おそらく20代前半の肺活量から言って3000mlと考えて無理はなさそう。
そのうちおよそ20%が酸素だけどゆとりは計算が苦手なのでとします。すると1000mlが酸素。
従って
と書き換えられる。
2.大気中の酸素の量を推定
体積は面積×高さなので地球の表面積と大気の高さがわかれば、大気の体積がわかる。
まず、地球の半径はGoogle先生によると6371kmなので、まぁおおよそ6000kmってことで。
球の表面積は
なので、地球の表面積はおよそ
まぁ、でも問題ないでしょ。ゆとりなんで小数点は四捨五入
大気の高さは500kmだけど、16km中に90%が含まれるらしい。なので概算で
だいたいですね。
うち酸素はと考えて、大気の体積はまぁだいたいとなる。
従って、大気中の酸素に対する一呼吸の酸素の割合は
となる。
3.本田翼の一呼吸に含まれる酸素分子数を推定
化学は得意じゃないけど、これはアボガドロの法則を使えばすぐ求まるはず。。。
0℃、1気圧、22.4lの気体がその中に含む分子数はおおよそ。
はアボガドロ定数ってやつ。
22.4lに対して個の分子があるってこと(温度とか気圧とか細かいことはゆとりなので無視)。
計算が面倒なので22.4lを24lと考えて、一呼吸の酸素は1lなので1lあたりの酸素分子数は
個
つまり、本田翼が吸った酸素分子が大気中に一様に広がったとすると
大気中の酸素に対する一呼吸の酸素の割合に、本田翼の一呼吸で吐き出された酸素分子数を掛けると、俺が一呼吸で吸う酸素分子のうちいくつ本田翼が吸った酸素分子が含まれているかがわかる!!
世紀の瞬間
2.で大気中の酸素に対する一呼吸の割合はと求めることが出来た。
3.で本田翼が一呼吸で吸う酸素分子数は個と分かった。
つまり、俺の一呼吸に含まれる本田翼が吸った酸素分子数は
=0.25個
つまり、
「俺は4呼吸で本田翼と同じ酸素を吸っているのだ。」
という主張ができる!!!
この理論から行くと、俺は本田翼と同じ酸素を吸いつつ堀北真希と同じ酸素を吸っていてもおかしくない!!
エロい!!!なんかエロい!!
生きるって素晴らしい。。。
風邪を乗り切れそうです。